カオルの不定期日記



ダウト詩人 2010年02月09日(火)

  2010 2/9 (tue) 16:00pm
今日は暖かい。


「ダウト」という映画をみた。
元々「舞台劇」としてハリウッドでやっていたらしい。
まずムリだと想うけれどその芝居をみたい。

オレにとっては興味深く考えさせられる映画だった。
最初はラストシーンになんとなく不満があったのだけれど
日が経つにつれて「あれしかないんじゃないか」と。
結局すべての謎は謎のまま。

ただあの映画の「根本」には「疑い/嘘/ダウト」がある。
オレにはそう感じた。

オレは常日頃「自分の美学」というモノを想っている。
便宜上それを軸に信じて行動している。

オレだけではなく他のヒトもそうだろう。
自分の価値観/正義/誰かの教え/こう考えなければ生きていけなかったなど。

あの映画は「カオル君。その美学自体を疑うんだよ」と示唆しているような。
「疑い」というコトバをオレは「推敲/他の考え方を学ぶ」と置き換える。
発想。想像力。柔軟性。

オレは詩や文章を書く。
なんども見直していい曲になったと次の日唄うと
「ありゃりゃ?」というコトの方が多い。
この文章も慎重にコトバを選んでいるつもりだけれど
誰かを不愉快にさせてしまうかもしれない。
そういう「疑い」を持ち「おそれ」を抱えて唄う。

25年前は長髪というだけで出来るバイトは限られていた。
スタジオ/レコード屋/肉体労働など。
まして髪の色を変えたりピアスなどしていたら人間扱いされなかった。
入れ墨をしているのは極道とチンピラだけだった。

だけど20世紀の終わりには
大半のヒトが髪の毛を茶色にしてピアスも入れ墨も流行った。
価値観なんて20年で変わってしまう。

子供の頭を撫でると母親が猛烈に怒る国もある。
ある人種は少し高いところに子供をのせてこういう。
「さあ。パパが受け止めるからジャンプしてごらん」
子供はがんばってジャンプする。
受け止めるはずのパパは動きもしない。
「いいか。ヒトを簡単に信じちゃダメだぞ。家族でも」

ほとんどの戦争は「それぞれの正義」の戦いだ。
戦争では相手を殺せば殺すほど誉められる。
歴史とは戦争の歴史でもある。

いい映画だった。
どの役者も演技が素晴らしかった。
「演じること」に対して尋常じゃない情熱と才能のあるヒトたちだ。


それでもオレは最終的には「自分の生理的な感覚」を信じる。
あるとき音楽を聴く。
3秒でココロを奪われる。
誰のなんという曲かわからないけれどしびれる。
そこに「理屈」はない。
ただ「感じるだけ」だ。

「事実と真実」は本当にむずかしい。

あるオトコが殺人の容疑で逮捕される。
決定的な証拠はなくオトコは無罪を主張する。
「オレはやってない。なにも知らない」
しかし状況証拠はそのオトコに不利なモノばかり。
結局オトコは「殺人罪」と判決がくだされる。
それは「事実」だ。社会的な事実。

でも「真実」はわからない。
オトコは本当にやっていないのかもしれない。
本当のことは殺された相手とそのオトコと
もし別に犯人がいるのならそいつしか知らない。

えん罪。無実の罪で苦しんでいる「とりあえず受刑者」もいるのだろう。

前にこの日記にも書いたけれど
もしも記憶がまったくなくなったとして。
また同じヒトを好きになるのだろうか?

変な映画があった。
ある事故で相手と脳が入れ替わった。
A君の脳はB君へ。A君のカラダは変わっていない。
B君の脳はA君へ。B君のカラダも同じままだ。

さてこれで奥さんが困った。
「わたしは。彼のルックスが好きなのか。脳の考え方が好きなのか?
 カラダや顔は別人でも優しくてあのセンスが同じなら。
 でも。なんだか他のヒトに抱かれているようで落ち着かない」

現実にはまずあり得ないことだろうけれど
いろいろ「疑いだす」とキリがない。

だいたい。
この日記は。
本当に「カオルという人間が書いたモノか」はオレしかわからない。
「あの芸能人本出してバカ売れだけど本当に自分で書いたのかしら?」

レインは疑い深い。
人を信用しない。
それでいいと想う。

またね。

ブブブイーン。
 


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